リス、野鳥、精霊たちのこと

            今日はとても嬉しいことがありました。

2階のキッチンの窓辺に、リスが 野鳥用に置いてあった麻の実を食べに来たのです。

私の顔を見ると、驚いて、餌の置き台のない方の窓枠に飛び移ったので、 落ちないかとヒヤヒヤしましたが、 思い直して、また元の場所に戻って食べ始めてくれました。

驚かさないように、ものすごくゆっくりと リスに近づいて行きました。

仕舞いには、15センチほどしか離れていない距離で じっくりとリスを眺めることができました。

リスも麻の実が美味しいので、 我慢してくれたのでしょう。

私があまりに嬉しそうに眺めているのを シジュウカラが集まってきて、観察しに来ました。

そして、そんなに至近距離でよく耐えられるなと 皆で驚いている様子でした。

リスが麻の実をたくさん食べて、去った後、 今度は、シジュウカラヤマガラが、どれだけ私に近づけるか 面白半分に飛んで来ては やっぱりちょっと怖くて、 いつもより大げさに慌てて種をくわえ飛んでいきます。

私がいないところにも餌は置いてあるのに、 きっと暇なのでしょう、わざわざ怖いもの見たさにか 私をからかいたいのか、 多分両方だと思いますが、 私の目の前の餌を取りに来るのです。

まるで小学生のピンポンダッシュの様でした。

シジュウカラヤマガラは、本当に遊びの天才です。

主人が外壁の高いところにあるライトの電球を取り替えるため、 はしごに登って両手を挙げているところに、 脚の隙間をビュンビュン飛び交って あわよくば、ひっくり返れば面白いとでも思っているようです。

家から出て車に乗っても、歩いていっても、後を集団で 縄張りの限界の枝まで追いかけてくれるし、 逆に家に戻ると、一斉に鳴いて皆で「餌が帰ってきたよ」と 合図し合います。

それでも、私の気持ちが少し沈んでいる時などは、 15羽ほど、順番に一羽、2羽ずつ飛んで来て、白と黒のおなか、 あるいは、オレンジと黒のおなかを 背伸びしてしっかりと見せて、、目をクリンとして、私に 何か励ますような、そぶりを見せてくれます。

主人が私が鳥を呼ぶのを恥ずかしいといって 決してまねしないのを知ってか、 人がいないのを確認して、主人が初めて低い声で「ピチュちゃん」と呼ぶと、 ちゃんと、「分かってるよ」と言わんばかりに 目の前に来て、大きな声で「ピチュー!」と返事してくれたのには 驚きました。

普段夜に練習するバレエの回転も、昼間やると珍しいのか、 興奮したように鳴き始め、集まってきます。

小鳥たちは、付き合ってみると、本当に面白いのです。

地味であまり私たちに近づいてこないカワラヒワについてあまり関心がなく、 シジュウカラヤマガラばかりをかわいがる私に、 主人が「カワラヒワが向こうで切なそうな顔をしている」と言うので、 私は悪いことをしたと思い、心の中で 「ヒワちゃん、こっちへおいで、餌を食べにおいで」と言うと、 直ぐに飛んで来て、 今まで決して近寄らなかったのに、 私が目の前にいても平気で食べるようになりました。

心の中で話しかけた途端、やって来たので カワラヒワには、テレパシーが通じるんだなと思いました。

私が床供養の線香を上げているせいか、 家の中に精霊のようなものの存在を時々感じるようになりました。

家に入ると、今度は精霊さんたちが 「帰ってきたよ」と言わんばかりに どよめくのを感じたこともありました。

庭に出て歩くと、 今までより、地面から押してもらって 軽く立つことが出来る感覚があったので、 「土地の精霊に感謝の供養を捧げているので、 それを受け取ってくれたのかな。 これからも供養を続けて、大地を助けていかないといけないな。」

そう思っていると、目の前の富士の溶岩から 白い煙のようなものがモクモク出てきて 挨拶をしてくれました。

私の心をまるで読んで 現れたかのようなタイミングでした。

あれは土地の精霊だったのではないかと 思っています。

心の中はバレバレなようだし、 たくさんの家族がいるようだし、 常に気を配っていないと 誰かがきっと寂しい思いをしてしまうので、 忙しいけれど、必要とされているようで、嬉しくも有り難い毎日です。

小さなお友達

            最近は、お外の野鳥やりすさんたちは、もう馴れてしまったのか、

りすに、「りーすさ~ん!」と呼ぶと、走ってきてくれます。

鳩に、「はーとさ~ん!」と呼ぶと、鳩さんが飛んで来てくれます。

シジュウカラに、「ピチュちゃ~ん!」と呼ぶと、どんなに遠くにいても やってきてくれますし、 山雀くんは、いつも近くにいるので、餌がないと、私の頭の真上から 文字通り落ちてきます。

私が「わっ!」と驚いてよけるのが面白いらしく、 次は後ろから耳の横をすごいスピードで通り抜けて行きます。

庭仕事をしていると、すぐ近くの枝に止まって、「声かけ」をしてくれます。

先輩が、後輩をねぎらって「よく働いているね」と言うように。

また、枝を切ると、怒ります。

最初は優しく「ジージー」と注意し、私が「風通しをよくするためにもう少し」と、 無視して一生懸命剪定していると 今度は、とても厳しい声で鳴いて、大切な枝なので、切ってはダメだと言うのです。

とても上から目線なので、私を鳥の仲間に入れてくれているのでしょうか?

少し前に、鳥だけが入れるどこかの次元の楽園に入った夢を見ました。

私を見て、どうやって入ったのと驚いていましたが、 鳥だけがお互いに見せる美しいダンスを見せてくれたり、 美しい歌を聞かせてくれたりして、 幸せな夢でした。

石川県が恋しくてたまらない私に、 もっと山梨にしっかりと根付くように 鳥たちが助けてくれています。

先祖供養

            ささやかながら、先月、白山道さん流の先祖供養、動物供養というものを

始めました。

お香の香りがこんなにも喜ばれるとは知らず、 満足して頂けたのか、供養した後には、焚いたお香が、 愛にあふれる甘い甘い香りに変わっており、 喜んで頂けるのが嬉しくて、つい京都の松榮堂さんのお線香を 数種類買い揃えてみたりしています。 特に円明と清風というお香が喜ばれている気がしています。

こんなにもたくさんの方々が供養を待っておられたのを 知らなかったのは、今までの生き方は、不遜の極みだと反省し、 決して一人で生きているわけではなく、 多くの方々の命のお陰で生かされていることを実感し、 何か体中が満たされて、大所帯で賑やかに生活している感じがしています。

私は石川県出身なので、金沢を恋しがる私に、 主人の勧めで、「利家とまつ」という昔の大河ドラマを見ているのですが、 アイデンティティがぴったりとはまって感動で涙を流しているところで、 主人曰く、「先祖たちがみな肩を組んで喜んで一緒に見ている」らしいのですが、 私も同じヴィジョンが見えていたので、笑ってしまいました。

8月に訪れたイタリアのアッシジにて、サン・フランチェスコの腰紐の御前にて頂いた、 「最も小さきものを大切にしなさい。」というメッセージを このような形で実践させて頂いているのかと、嬉しく思います。

供養を必要とされているのに、 忘れられてしまった多くのご先祖、ものが言えない動物たち、土地の精霊方、 私の知らない苦しんでおられる方々・・

毎日お寄り下さり、身体に多少の負担はあるのですが、 近くの温泉に入れば癒やされますし、 それが吹き飛ぶくらいに、今までずっと我慢していたことができることは、 とても嬉しいです。

一年以上先祖供養することが条件の、地縛霊さんたちのための床供養をした時、 大勢いらして身体が持つかなと思った瞬間、 美しいお顔の武士の(多分先祖)方々が、私を守って下さったこともありました。

急いではいけないのですが、 限りある命で、なんとかお役に立ちたい一心で、 また喜んで頂けて嬉しい一心で、 今は、先祖供養と神祭りを心を込めて毎日の日課としています。

スレイマンアゲートの体験談

            M.M様からスレイマンアゲートの体験談を頂きました。M.M様、有り難うございました。

榎本様

本日、無事にスレイマンアゲートが届きました。 石を手に取ると、懐かしい人に出会えたような喜びと涙がこみ上げてきました。 神棚の前に置き、祈り始めると、全身か熱くなり、その後もずっと心地よい熱が全身を満たしていました。 この石は二年ぐらい前から、ネットで拝見していました。その頃は何も感じることのなかった石が、今は心も体も魂も共感する石となって私の元に届きました。まるで以前から私を待っていてくれたような気がして、とても嬉しく感じています。 心より感謝申し上げます。

       M.M

キジバトの赤ちゃん

            キジ鳩の2羽の赤ちゃんが孵化して数日経ちました。

黄色のボワボワの綿毛が、いつの間にかキジバトらしい美しい模様を作って 旅立ちの日に備えているようです。

親鳥も姿を見せなくなり、 代わりに、メジロエナガヤマガラシジュウカラたちが時々集まってきて 何やらめいめいに話しかけているようです。

わざわざ深夜まで電気がついている 部屋の窓の近くの枝に巣を作るとは、 逆に人間の側の方が安全だと思ったのでしょうか?

信頼されているようで、ちょっと嬉しく思います。

毎日、気になって、何度も見に行って、声をかけていますが、 未だ鳩の赤ちゃんの鳴き声というものを聞いたことがありません。

今日か、明日、きっと天気が続く日に、飛び立つのだろうかと、 毎日見張っています。

ヤマガラは、カラスが来ると、勇ましく鳴いて撃退してくれたり、 メジロは、ヒヨドリがけたたましく雛の近くで鳴くと 「どうしたの?」と言うように、鳴いて、諫めてくれます。

小さいけれど、しっかりとした子守たちがいて、 頼もしい限りです。

森の赤ちゃんは、皆で育てるという意識なのでしょうか?

人間も見習いたいところです。

ジョット『オニサンティの聖母』

            アッシジに2泊した次の日は、

フィレンツェに行きました。

事前に予約をして行ったウフィツィ美術館では、                      最初に展示されていたジョット・ディ・ボンドーネの『オニサンティの聖母』 (1310年 - 1311年頃)と チマブーエの『サンタ・トリニタの聖母』(1285年頃)の前に、 あまりの光に滂沱の涙が流れ、 身体中の細胞が新しいものに入れ替わって癒され 浄化されたように感じました。 ヒーリング・アートなるものがあるとすれば 私にとっては、まさに、これこそがそうだと感じました。

実際、旅の疲れからか、久しぶりに酷く荒れてしまった手も、 その日から一気に回復していきました。

ジョットがキリストと聖フランチェスコを愛していたからこそ、 このような美しい絵画が生まれ、 ルネッサンスの魁になったということを 本で書かれて知っていましたが、 実物は、あまりのパワーに圧倒されて 冷静に見ることすらままならないほどでした。

アッシジと聖フランチェスコが生んだ画家・・ 「聖フランチェスコの小さな花」という本にもあるとおり 数々の奇跡を起こした聖フランチェスコが 死してもなお、いかに多くの人に影響を与えたか ということだと思います。

絵画を見て、泣いたことは、 今まで一度もなく、凄すぎて、言葉にはできない 本当に感動の体験でした。

もし、もう一度イタリアに行けるのなら、 アッシジと、フィレンツェに行きたいです。

今は、「アッシジの聖壁画たちよ、甦れ」(小学館)や 「聖フランチェスコの小さな花」(田辺 保訳・教文館)などを読んで、 聖フランチェスコの物語を じっくりと、味わおうと思います。

アッシジの聖フランチェスコ

            先日、イタリアに行ってきました。

そして、アッシジを訪れました。

30年ぶりのヨーロッパ、そして、アッシジは、30年来、ずっと訪れたい町でした。

父も「アッシジはよい町だった」と言っていたし、それに、 アッシジは、鳥とも話せた聖フランチェスコの町だからです。

心の中には、繰り返し「聖フランチェスコの平和の祈り」がありました。

私にはできないけれど、どうしたらそうなれるのかな、そう思いながら、心の中で 途切れ途切れ、小さなフレーズを刻んできました。

ほぼ予備知識無しで訪れたアッシジで最初に出会ったのは、 修道院を改装した石造りの小さなホテル、 ベランダからは、バラ色の聖キアラ教会が目の前に見え、 聖フランチェスコがお説教した鳩の子孫と思われる 鳩たちが巣を作っており 挨拶の歌を歌ってくれました。                      

花と実のなる豊かな庭、 アッシジの町とその向こうに広がるトスカーナの景色、 赤い夕陽。 すでにそれだけで、胸がいっぱいでした。

翌朝訪れた、聖フランチェスコ教会のゴシックとロマネスク建築も ジオットーやロレンツェッティ、マルティーニの絵も素晴らしかったのですが、 見たかったという長年の思いのせいか ただただ圧倒されてしまいました。

もっと身近に感じられたのは、聖フランチェスコの墓でした。

お墓の前のたくさんの人に交じって、 私もひざまずいて、お祈りしてきました。

とてもとても小さなものを一粒も残さないように、 このトスカーナの自然、大地も、風も、水も、草木も、動物たちも、星や月や太陽も、 全て強い情熱をもって愛した方だったこと、 そして、自身のことも、とても小さなものだと思ってきたことが 感じられました。 亡くなったあと、星になられたのだなとも感じました。

とても純粋で、自然に対する感性の鋭い、 神道にも似た自然観をもっておられたのだなとも感じました。

そして、この方の前では、私は、一粒の粒子以下になってしまう それほど大変謙虚な方だったのだなと思いました。

聖フランチェスコが亡くなったポルチウンクラのある 天使の聖マリア教会の聖フランチェスコの「腰ひも」の前にひざまずいて祈った時、 はっきりと頭のなかで、響いた言葉、 「小さき者を大切にしなさい。」

この言葉は、帰国後も、私の頭に鳴り響いていて、 小さきものとは、実は、聖フランチェスコ自身が自分を「小さきもの」と呼んでいたということ 自身を最小限にして神に捧げたイエス様のこと、 そして、自分自身のこと、家族や友人知人のこと、 動物たちや自然のこと、 私が取るに足らないと思っているもの。 それらすべてが大切ということ。

その謙虚さは、おそらく、「夜の宴の王」と呼ばれるほど 遊び人だった自分を振り返ってのことだったと思います。

人にダメといわれて、自分を蔑むのではなく、 謙虚になって、 だめな自分をしっかり見つめて神様と向き合えば、 小さくてもよい、 誇れるものが何もなく、小さいからこそ、愛されている。 そういう単純さ。

単純でよい、小さくてもよい、 そう思うと、 充足感が身体中に溢れてきて 身体が震えて、 今までの全ての否定が、 全肯定に変わったように 感じられました。

聖フランチェスコは、「聖フランチェスコの小さな花」によると、 ある時、神への愛と喜びに打ち震えて、 ただただ、「ああ神様!ああ神様!」とだけ お祈りしていたそうです。

聖フランチェスコのこの単純さ、動物や自然を愛する単純さ、 イエスに倣って、人を愛する忍耐強さ これがあれば、最強に幸せになれると思いました。

そして、そのためにこそ、努力するのであって、 人にダメと思われないために努力するのではない それをやっと理解したように思います。

小さき者全肯定。 謙虚であり、忍耐強くあること。

矛盾だらけの存在が、どこまで正直にだめな自分を見つめ そこに届くか。

もし、命がまだ続くのであれば、 与えられた時間を 難しいかもしれないけれど できればそのことを考えて使いたいと思いました。

長らく待ち望んでいた聖フランチェスコとの出会いでした。