アッシジの聖フランチェスコ

            先日、イタリアに行ってきました。

そして、アッシジを訪れました。

30年ぶりのヨーロッパ、そして、アッシジは、30年来、ずっと訪れたい町でした。

父も「アッシジはよい町だった」と言っていたし、それに、 アッシジは、鳥とも話せた聖フランチェスコの町だからです。

心の中には、繰り返し「聖フランチェスコの平和の祈り」がありました。

私にはできないけれど、どうしたらそうなれるのかな、そう思いながら、心の中で 途切れ途切れ、小さなフレーズを刻んできました。

ほぼ予備知識無しで訪れたアッシジで最初に出会ったのは、 修道院を改装した石造りの小さなホテル、 ベランダからは、バラ色の聖キアラ教会が目の前に見え、 聖フランチェスコがお説教した鳩の子孫と思われる 鳩たちが巣を作っており 挨拶の歌を歌ってくれました。                      

花と実のなる豊かな庭、 アッシジの町とその向こうに広がるトスカーナの景色、 赤い夕陽。 すでにそれだけで、胸がいっぱいでした。

翌朝訪れた、聖フランチェスコ教会のゴシックとロマネスク建築も ジオットーやロレンツェッティ、マルティーニの絵も素晴らしかったのですが、 見たかったという長年の思いのせいか ただただ圧倒されてしまいました。

もっと身近に感じられたのは、聖フランチェスコの墓でした。

お墓の前のたくさんの人に交じって、 私もひざまずいて、お祈りしてきました。

とてもとても小さなものを一粒も残さないように、 このトスカーナの自然、大地も、風も、水も、草木も、動物たちも、星や月や太陽も、 全て強い情熱をもって愛した方だったこと、 そして、自身のことも、とても小さなものだと思ってきたことが 感じられました。 亡くなったあと、星になられたのだなとも感じました。

とても純粋で、自然に対する感性の鋭い、 神道にも似た自然観をもっておられたのだなとも感じました。

そして、この方の前では、私は、一粒の粒子以下になってしまう それほど大変謙虚な方だったのだなと思いました。

聖フランチェスコが亡くなったポルチウンクラのある 天使の聖マリア教会の聖フランチェスコの「腰ひも」の前にひざまずいて祈った時、 はっきりと頭のなかで、響いた言葉、 「小さき者を大切にしなさい。」

この言葉は、帰国後も、私の頭に鳴り響いていて、 小さきものとは、実は、聖フランチェスコ自身が自分を「小さきもの」と呼んでいたということ 自身を最小限にして神に捧げたイエス様のこと、 そして、自分自身のこと、家族や友人知人のこと、 動物たちや自然のこと、 私が取るに足らないと思っているもの。 それらすべてが大切ということ。

その謙虚さは、おそらく、「夜の宴の王」と呼ばれるほど 遊び人だった自分を振り返ってのことだったと思います。

人にダメといわれて、自分を蔑むのではなく、 謙虚になって、 だめな自分をしっかり見つめて神様と向き合えば、 小さくてもよい、 誇れるものが何もなく、小さいからこそ、愛されている。 そういう単純さ。

単純でよい、小さくてもよい、 そう思うと、 充足感が身体中に溢れてきて 身体が震えて、 今までの全ての否定が、 全肯定に変わったように 感じられました。

聖フランチェスコは、「聖フランチェスコの小さな花」によると、 ある時、神への愛と喜びに打ち震えて、 ただただ、「ああ神様!ああ神様!」とだけ お祈りしていたそうです。

聖フランチェスコのこの単純さ、動物や自然を愛する単純さ、 イエスに倣って、人を愛する忍耐強さ これがあれば、最強に幸せになれると思いました。

そして、そのためにこそ、努力するのであって、 人にダメと思われないために努力するのではない それをやっと理解したように思います。

小さき者全肯定。 謙虚であり、忍耐強くあること。

矛盾だらけの存在が、どこまで正直にだめな自分を見つめ そこに届くか。

もし、命がまだ続くのであれば、 与えられた時間を 難しいかもしれないけれど できればそのことを考えて使いたいと思いました。

長らく待ち望んでいた聖フランチェスコとの出会いでした。